2009年3月11日水曜日

2009年3月10日火曜日

ゆっくり急いで[honobono]











● 2001/11 春秋山伏記


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2009年2月28日土曜日

ゆっくり急いで [Mutsugorou]


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2009年2月26日木曜日

ゆっくり急いで [Judy Ongg]

 池田満寿夫をWikipediaで見てみる。

池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年2月23日-1997年3月8日)は、画家、版画家、彫刻家、陶芸家、作家、えいが監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。官能的な作風が多く、いずれの分野の作品も現在でも高い評価を得ている。

 1977年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。

 この『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって現され、非常に話題となった(主演はのちにイタリアの国会議員にもなったチッチョリーナことイローナ・スターレル。ちなみに、歌はジュディ・オング(Judy Ongg)『魅せられて』である。これも、大ヒットであった)。官能的な女性を描かせたら、当代一であったといわれる。

 19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったため逝去まで戸籍上の妻はこの女性だけで、その後に同居した作家富岡多恵子やバイオリニスト佐藤陽子等は内縁の妻だった。



 リランは22歳のとき、池田に出会っているので、彼女も池田満寿夫の内縁の妻になる。
 ちなみに二番目の。
 が、彼女は池田との関係を国際結婚といっている。


 昔のことだが、住んでいたところから10分ほどのところに「池田満寿夫」の表札があった。
 佐藤陽子と一緒に暮らしていたころのことである。
 「エーゲ海に捧ぐ」は読んでみたが、さっぱりわからなかったが、それよりジュデイ・オングの歌がよかった。
 あの豪華に飾りつけられたヒラヒラのドレスがなんとも美しかった。

 You Tube でどうぞ

★ 魅せられて Judy Ongg
http://www.youtube.com/watch?v=TU-ErCB1Zy0
http://www.youtube.com/watch?v=iMYo6XvTo8U



 そして、ヒラヒラのドレスのジュデイがなんと和服を着こなして、箱車を押すのだ。
 なんともいたいけな。
 中村敦夫の号令一下で、右に左にと。
 みていて、ジュデイ・オングがかわいそうだった。
 「おしどり右京捕物車
 You Tube をさがしたのですが見つかりませんでした。
 写真もあまりないのです。
 






 なんで、リランが池田満寿夫になり、ジュデイ・オングになってしまうのだろう。



ジュディ・オング (本名:翁倩玉(ウォン・チエンユィ= Wēng Qiànyù)・英語名:Judy Ongg・帰化名:翁玉恵(おきな たまえ)だったが現在は翁ジュディ)は1950年1月24日台湾出身の歌手女優版画家(版画家としては倩玉の名を使っている)。上智大学国際学部卒。出生地は台北市、貫籍(本籍地)は台南縣柳營郷。なお、語学が得意な彼女が話す言葉は母語である台湾語福建系の閩南語)のほか、日本語英語北京語(中国の標準語)、スペイン語の5言語である。英語名であるオングは、台湾語泉州音による彼女の姓名(Ong1 Chhian3-gek8)から来ていると考えられる。

父方の祖父・翁俊明(1892-1943・台南人)は辛亥革命の歴史的人物であり医者、母方の祖父は台南の大地主・劉北鴻、また父・翁炳榮中国広播公司ラジオ局局長にしてGHQ心理作戦部チーフだった。

プロフィール

1950年1月24日、台湾台北市にて生まれた翁家の長女は倩玉と名づけられた。上に兄(職業は建築家)が1人いる。

1952年、彼女が2歳のときに父の仕事の都合で翁家は来日した。そして小学校は東京中華学校に入学、学校で中国語の標準語である北京語を勉強しつつ、家庭教師について英語を勉強するようになる。ここでその家庭教師にJudyという英語名をつけてもらったという。また家庭では、両親の母語を忘れないようにとの教育方針から台湾語(閩南語)を使っていた。1959年、9歳の時に劇団ひまわりに入団する。このとき父は大反対したが、「芸能活動をしながらも、学業をきちんと終わらせること」ということを条件に、劇団に入ることを許可してもらったという。その約束どおり、東京中華学校のあとASIJアメリカンスクール)に通って英語を磨き(タレント西田ひかるは彼女の後輩にあたる)、また上智大学ではスペイン語を習得している。

[編集] 日本での芸能活動

[編集] コロムビア時代

1961年に日米合作映画「大津波(原題:THE BIG WAVE・原作:Pearl S. Buck)にて映画デビュー。のちテレビドラマ三太物語」「明日の家族」などに出演した。

1964年、フジテレビ開局5周年記念ドラマ「おねえさん」に出演した際、番組を見終えた石原裕次郎から「キングコング」という渾名をつけられる。

1966年に日本コロムビアより「星と恋したい」で歌手デビュー。1967年に『たそがれの赤い月』が大ヒットする。この曲は日本で彼女にとって『魅せられて』と共に有名な代表曲である。これを含めてコロムビア時代(初期~中期)は市川昭介が手がけた演歌調の曲が多かった。

同時期に「涙くんさよなら」「青春ア・ゴーゴー」「帰ってきた狼」などの多くの映画テレビドラマS・Hは恋のイニシャル』(共演:伊東ゆかり大原麗子布施明1969年)などにも出演し人気を得た。

また、1970年代、「おしどり右京捕物車」、「賞金稼ぎ」、「必殺からくり人」、「新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅」、「江戸を斬るIV」など多くの時代劇に出演している。

この頃以降、筒美京平都倉俊一が手がけたポップス調の曲も出すようになった。

1972年、日中国交回復を機に日本に帰化

[編集] CBSソニー時代

1973年日本コロムビアからCBSソニーに移籍。1975年、市原悦子主演のTBSドラマ「赤い殺意」主題歌「愛は生命」がヒット。

1979年に『エーゲ海のテーマ~魅せられて(初回盤レコードのジャケット表記に従う)が200万枚[1]の大ヒット。女性下着メーカーワコールのCMソングだが、彼女自身のエキゾチックで妖艶な雰囲気と、同年の日米合作の映画『エーゲ海に捧ぐ』のイメージとも合致し(同映画の主題歌ではないが、CMには映画にも主演したチチョリーナが出演し映画上映と同時期に放映されており、一種のタイアップである。英語のサビの歌詞の「Wind is blowing from the Aegean」は、「風はエーゲ海からふいている。」という意味であった。)、見事日本レコード大賞を受賞。NHK紅白歌合戦に も初出場を果たす。彼女自身のデザインによる、扇状に広がる袖がついた優雅な衣装も話題になった。デザインの趣旨はスクリーンドレスで、扇状に拡げた袖と 胴全体に「エーゲ海の風景の映画を映す」というものであった。しかし初披露のときには映像が間に合わなかった。通常は扇状の袖の先を中指に引っ掛けるタイ プだが、NHK紅白歌合戦などの大舞台では、棒を利用して彼女の手の長さより、さらに扇の面積を大きくしたバリエーションが見られた。現在でも彼女はTVで『魅せられて』を歌う際は必ずそのドレスを着る。この曲の大ヒットをリアルタイムで知る世代の人達で「シーツで真似した」と云う人も多い。またその衣装は小林幸子天童よしみらにも影響を与えている。当時、人気番組「8時だョ!全員集合」内では志村けんもパロディーを演じている。

この1979年、アメリカのテレビドラマシリーズ「将軍 SHOGUN」のヒロインとして出演依頼があったが、『魅せられて』の大ヒットと時期が重なってしまい断念。結局、そのヒロインは島田陽子が演じ、島田はアメリカでも人気を得ることになった。

[編集] 東芝EMI時代以降

1985年、CBSソニーから東芝EMIに移籍、映画「ひとひらの雪」主題歌「ひとひらの雪」がヒットする。

1990年にはラスベガスにてショーを開き、ネバダ州知事により、1990年2月3日を「ジュディ・オングデイ」と制定される。

2004年にはビクターエンタテインメントに移籍、「魅せられて」のリメーク版を出した。

また、現在はワールド・ビジョン・ジャパン([1])の親善大使も務めており、さまざまなチャリティ活動を行っている。

[編集] 中華圏での活躍

1966年、台湾中央電影公司(中影)総経理・龔弘氏と知り合い、中影と契約、1968年に台湾デビュー作「小翠」に出演、台湾および東南アジア中国語圏に活動の場を広め、1972年には台湾映画「真假千金(邦題:ニセのお嬢さん)」にて第9回「金馬奨(ゴールデン・ホース賞)」最優秀主演女優賞を、翌1973年には同じく台湾映画「愛的天地(愛の大地)」で第19回アジア映画祭特別演技賞をそれぞれ受賞している。またその間台湾および東南アジアの中国語圏でもレコードを リリースしており、「海鴎(クールファイブが『海鳴り』として日本語版をリリース)」、「珊瑚戀(コロムビア時代のアルバム曲『海辺のメルヘン』中国語 版)」、「温情滿人間(同『悲しい訪問者』)」、「口信(CBSソニー時代のヒット曲『愛は生命』中国語版)」「祈祷(『竹田の子守歌』のメロディに彼女の父、翁炳榮氏が中国語の詞をつけたもの)」など中国語の流行歌でも大ヒットを飛ばし、台湾の連続ドラマ「愛的旋風」にも主演。このころより、野球王貞治囲碁林海峰とともに台湾華人三 宝の一人と称される。ジュディの台湾での映画出演は1978年の「新西廂記」まで続き、その後80年代は日本をメインに芸能活動を展開していく。なお、彼 女が台湾で主演した「真假千金」、「愛的天地」、「無價之寶(邦題:ジュディのラッキージャケット)」の三作品は、2003年の「第16回 東京国際映画祭」にて日本で上演された。

1980年には台湾の国民栄誉賞・海光奬彰を受賞(王貞治に続き2人目)。

1983年には徐克ツイ・ハーク)監督の香港映画「蜀山 新蜀山劍侠(邦題:蜀山奇傳 天空の剣)」に出演、1985年には香港でNHKのドラマ「おしん」が放送された際に作られた香港オリジナル主題歌「信」を広東語にてレコーディング、香港EMIよりリリースして東南アジア全域で大ヒット、1988年に同曲で香港白金唱片奬を受賞した。

1989年、久しぶりに台湾にてアルバム「倩玉情懷」をリリース。

1990年には、中国中央電視台(CCTV)のバラエティ番組「正大綜藝」の主題歌「愛的奉献」が中国大陸でリリースされ大ヒット。中国大陸への進出を果たし、1992年にはNHKとCCTV共同開催の日中国交正常化20周年記念「日中友好歌謡祭」にて歌と総合司会を務めた。そして1995年、彼女自身の企画による「北京平和コンサート」を北京天檀公園にて開催、日中両国から多くの歌手が参加した。また同年、台湾で勳一等華光奬章を受賞(女優・李麗華、歌手・テレサ・テンに続いて3人目)。

1999年11月には台湾大地震のチャリティコンサート『ハート・エイド』in東京国際フォーラム を企画・開催、2008年7月には同じく東京国際フォーラムで行われた四川大地震のチャリティーコンサート『ハートエイド・四川』をジャッキー・チェンらと企画・開催している。

[編集] 芸能以外の活動

1975年、棟方志功門下の版画家・井上勝江氏に師事、木版画家としての道がスタートする。以降1993年には初の個展開催、その後も日本国内をはじめ、台湾各地、ドイツ、フランスといった海外でも木版画展を精力的に開催している。版画では日展入選をはじめ、数々の賞を受賞しており、1995年には白日会正会員となっている。日本家屋をテーマとした作品は評判が高く、2003年には宇治の平等院鳳凰堂を100号の作品に仕上げた「鳳凰迎祥」が8回目の日展入選を遂げ、2005年3月、同作品が平等院に奉納された。






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2009年2月13日金曜日

ゆっくり急いで[attention]


● 物書同心居眠り紋蔵



● お腹召しませ



【ゆっくり急いで ★attention 】

 これは下書き原稿under paperです。
 書きあがるとdeleatされます。
 一時の草稿memoにすぎません。
 完成本稿は下記にmoveされていますので、そちらをどうぞ。
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● お腹召しませ





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